房総球奏考

野球応援だったり観戦日記だったり

慶應義塾にしか作れないアルプススタンド

2018年8月12日の甲子園球場慶應義塾高知商業


慶應義塾のアルプスでの応援の様子を見て


「これはどこも敵わないな...」


と思った。


そもそも今年の夏は甲子園に行くつもりなどなかったのだが、慶應義塾が甲子園出場を決めたとき、10年前のあのアルプスの応援を思い出し、これは行かなきゃいけない!と思い立った。


慶応のエンジョイベースボールも大好きなのだが、今回は完全に「慶応の応援」が唯一最大の目的として、聖地入り。


実際に肌で感じた慶応アルプスの魅力を、あくまで自分目線でいくつか挙げてみる。


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カッコイイ!塾高オリジナル「烈火」


慶応の応援レパートリーは、基本的に大学と同じだが、その中にあって大学では使われない、塾高オリジナルの「烈火」が輝きを放つ。


シリウス」や「アラビアンコネクション」など、現在の慶応の代表曲をいくつも作曲した中谷寛也さんが、2008年の塾高選抜大会出場の際、応援指導部から作曲を依頼されたという。


メロディの勇ましさはもちろん、後半コール部分や振り付けのシンプルさもスタンドを一体にさせる要素として働いている。


何度聞いてもカッコイイ!!


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慶應義塾 烈火 2018/08/12 高知商業戦


チャンスパターンの確立


現在の高校野球応援は、選曲から応援構成など、その方法は多種多様で、「~が使っていてかっこよかったから」という理由で自分の応援曲にしたり、流行曲を取り入れたり、SNSの普及からか、学校単位でもその応援の仕方は変化し続けている。


昨今、応援曲数を増やしたり、新曲を次から次に取り入れたりする学校があるが、実のところ、吹奏楽部の負担が大きい割に応援としての効果はマイナスになりかねない。


応援とはグラウンドの選手たちを勇気づけるものであると同時に、応援席も一体化させなければならないのに、わからない曲をやり続けることはスタンドを空中分解させてしまう恐れもある。


その中で、自校の応援パターンを確立している伝統校も多い。


今大会でいえば、1イニング継続制+チャンス曲という組み合わせでいうと、「ジョックロック」の智弁和歌山、「怪しい曲」の平安、今春そのスタートラインに立った近江などがまず挙げられる。


また、ランナーが出ればチャンスの「第五応援歌」に切り替えるチャンスパターン系の横浜高校も伝統を感じる。


同じくチャンスパターン系の慶応は、東京六大学系とも言える。


「タイタン」(これも中谷氏の作曲)から始まり、学注を挟んで「シリウス」+「アニマル」「疾風」「パトリオット」「烈火」「ソレイユ」の組み合わせ。


ランナーが進めば、「アラビアン」か「スパニッシュ」でつなぎ、「突撃のテーマ」「ダッシュ慶應」、得点が入れば「若き血」でフィニッシュという塾生や塾ファンが慣れ親しんだその応援パターンを持っているのは、アルプスを一体化させる要素としてとてつもなく大きい。


早稲田実業も同様だが、東京六大学の系列校や付属校ともなれば、積み上げられた応援の伝統が今の応援席を作り上げているのだと感じる。


しかし、ただ古い曲をやっているというわけではない。


慶大応援指導部の現役生が応援曲を作曲するという伝統は今でも続き、「疾風」は2006年に、「ソレイユ」は2013年に当時の塾生が作曲し、応援レパートリーに取り入れられ、「烈火」も2008年から使用という比較的新しい曲である。


1927年に「若き血」が生まれてから一世紀近く経つ今でも、応援レパートリーについて議論されている。


新旧の融合が見られるところも慶応の応援の魅力である。


慶應義塾」というブランド 「若き血」「塾歌」の存在


どんなにカッコイイオリジナル曲を持とうが、どんなに卓越した演奏力のある吹奏楽部がいようが、どんなに生徒を動員しようが、慶應義塾というブランドには勝てない。


自分が見たあのアルプススタンドの光景は、おそらく慶應義塾という学校以外には見られないだろうと思った。


それは積み上げられてきたものの厚みが違うから。


1927に作られた「若き血」、1940年に作られた「塾歌」の誕生は、早慶戦敗戦の悔しさの上に成り立っている。


k-o-m.jp



1903年に始まった早慶戦から、学生スポーツ応援とは何か、を試行錯誤し続けできあがった今の形は、野球応援の模範と言えるのではないだろうか。



慶應義塾 塾歌 2018/08/12高知商業戦試合前


神宮やハマスタでは見られない 甲子園だからこそ


確立したチャンスパターンや、掛け声との相性がよい豊富なオリジナル曲、簡易的な振り付け、応援指導部の力など、慶応の応援を成り立たせる要素は数知れないが、それも甲子園だからこそ、すべてが集約される。


この日は、アルプススタンドだけではなく、一塁側内野席から中央特別席まで、慶応関係者とみられる人々の姿があった。


その中で、「久しぶり」という会話が至るところで聞こえてきた。


世間からも注目される甲子園は、母校や付属校が出場となれば、そこは同窓会の場ともなる。


甲子園をきっかけとして、仲間との再会もそこそこに、試合が始まれば今度は仲間とともに応援。


応援したい人が何千という単位で集まるのだから、それだけ声援も大きくなる。


これも卒業生の力が強い慶応ならではとも言える。


こういった光景は、春秋の東京六大学リーグや神奈川大会の横浜スタジアムでは見られない。


甲子園は"特別な大会"だからだ。


高知商業戦の9回のアルプススタンドの光景は、慶應義塾というブランドやこれまでの応援指導部の歴史などがすべて重なり合った結晶なのだと思う。


これからもますます伝統を積み上げていくのだろう。


あの揺れるアルプスの光景をまたいつか見てみたい。



2018夏甲子園 慶應9回裏 最後の若き血 ダッシュ慶應

大阪桐蔭の応援には何が足りないのか

「房総」と銘打っておきながら今回は甲子園のお話。


第89回のセンバツが開幕し、2試合連続の延長15回引き分けもあり、連日白熱した戦いが繰り広げられている。


最近の甲子園の楽しみ方が、テレビから聞こえるブラスバンドが奏でる応援曲やアルプススタンドからの声援に耳の居心地を探すことだが、今年のセンバツでもグラウンド同様アルプスでも熱奏が繰り広げられた。


まずは初日に登場した日大三


パーカッションの数が増えたのか、1曲1曲の迫力が増したことで「come on!」他オリジナル曲が余計引き立ち、その音圧はテレビ越しからも伝わってきた。


対戦相手の履正社吹奏楽部員わずか17人ながら1人あたりの音量の大きさ、そして伝令中は演奏のボリュームを落とす駒苫式ミュートという常連校でもなかなかできない粋な演出を披露した。


出場校の中で最も驚いたのは、これまで定番曲中心にこれといった特徴のなかった健大高崎の応援が、社会人野球チームHonda鈴鹿の応援曲を採用したことにより大きく様変わりしたことである。


しかも、チャンスでは「コンバットマーチ」含め「全開ホンダ」と「ノンストップホンダ」を交互に演奏することで味方や観客を飽きさせない工夫も大きな変化を感じた一つであり、選曲一つでここまで劇的に変わるものかと感動さえ覚えるほどであった。


履正社のように野球部が甲子園に出場するようになったことで吹奏楽部の創部に至るケースや、健大高崎のように甲子園常連になるにつれて応援の形態に変化が見られるケースもあるなど、野球部と吹奏楽部(野球応援)の活躍は常にリンクしている。


そんな中、演奏のレベルは申し分ないのに全体的な応援として振り返ると物足りなさを感じずにはいられない学校がある。


今や全国一の強豪となった大阪桐蔭である。


テクニック重視の大阪桐蔭


吹奏楽部の創部は2005年と比較的歴史の浅い部活動だが、創部2年で全日本吹奏楽コンクールに出場、2010年に全日本マーチングコンテスト3年連続金賞、全日本吹奏楽コンクールも2011年に3年連続の金賞を受賞し、最近でも昨年10月の全日本吹奏楽コンクールで金賞、11月には日本管楽合奏コンテスト(日本音楽教育文化振興会主催)大編成の部で最優秀グランプリ賞を受賞した。


大阪桐蔭には、「Ⅲ類」と呼ばれる専門性を高め、全国の頂点をめざす体育・芸術のコースがあり、このクラスに属する部活動は強化クラブの位置づけで扱われる。


野球部やラグビー部、バスケットボール部などの全国屈指の強豪クラブをはじめ、2005年創部の吹奏楽部も創部当初からこの「III類」に属しており、その学校の思惑通り、確実に、急速に力をつけ、全国屈指の名門となった。


野球部は1991年に全国制覇を果たしているが、全国的な強豪として認知され始めたのは現在の西谷浩一監督となった2002年以降、もっと言えば「平田・辻内」で甲子園を沸かした2005年以降だろうか。


そこから急傾斜で成長曲線を描いていくが、それは吹奏楽部の成長曲線とも重なる。


私は素人なので演奏技術の良し悪しを解説することはできないが、聞き心地は確かに良い、それは吹奏楽経験者も認めるところなので間違いないのだろう。


では何が問題なのか。


tamanizi.diarynote.jp


上記の記事は野球応援に精通されている方が書かれた2006年の記事だが、私が言いたいこととおおよそ同じものが書かれている。


2006年で他の方が感じたことをその11年後自分が同じ感想を持つというのは、年々実績を積み上げてきた吹奏楽部に対して失礼な話かもしれないが、それは演奏技術と野球応援が必ずしもリンクしないということが言えるのではないだろうか。


たしかに、2005年前後の定番曲中心の選曲の脱却を図り、最近はその年のトレンド曲を多く取り入れ、「you are スラッガー」という大阪桐蔭発祥の曲も生み出すなど、応援形態の再構築の意思は感じられる。


2005年と現在の演奏曲を比較してみよう。

2005年夏準決勝 駒大苫小牧

ポパイ
TRAIN-TRAIN/THE BLUE HEARTS
サウスポー/ピンクレディー
タッチ/岩崎ひろみ
狙い撃ち/山本リンダ
日曜日よりの使者
聖者の行進
ルパン三世のテーマ
ワイワイワールド(アラレちゃん)
夏祭り

2017年春1回戦 宇部鴻城

桐蔭ファンファーレ
サーカスビー(The Circus Bee)
アフリカンシンフォニー(African Symphony)
SHAKE/SMAP
君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You)
前前前世/RADWINPS
We will rock youQueen
パワプロBGM
紅蓮の弓矢
上からマリコAKB48
You are スラッガー
恋/星野源
ウィリアム・テル 序曲(William Tell)
どこまでも~How Far I’ll Go〜(モアナと伝説の海)


この選曲からもわかるが、大阪桐蔭は当初PL学園をモデルにした応援を目指していたのではないか。


「聖者の行進」「アラレちゃん」、後に中田翔森友哉などのスラッガー専用曲となった「We will rock you」などの選曲はもちろんだが、2005年前後は人文字も重視していた。


それが春夏連覇を果たした2012年にPLモデルの応援から大きく転換し、「そばかす」「SHAKE」「LOVE2000」「OVER DRIVE」「上からマリコ」「Happiness」など、90年代から最近のj-popの曲を多く取り入れた。


また、2015年のセンバツでは「あったかいんだからぁ」、2016年は「Perfect Human」、そして今年は「前前前世」「恋」などその年の世相を表す曲を刹那的ではあるがレパートリーに取り入れている。


こういった応援スタンスの転換は、PLには届かないと感じたのか、自分たちの個性を出そうとしたのかその意図は私の知るところではないが、少なからず大阪桐蔭の野球応援に対する本気度も垣間見えたりする。


正直、今の大阪桐蔭の応援スタイルに満足してる人も多いし、何よりここ数年応援構成にこれ以上の進展がないのは、顧問の梅田先生はじめ関係者の多くが現状に満足している証拠ではないだろうか。


今のままでも十分な声がある中で、私の意見は「重大な欠陥を抱えている」、この印象はここ数年変わらない。

チャンステーマの消失


上の記事を書いた方の話によれば、大阪桐蔭が初優勝を果たした1991年にはチャンステーマが存在したという。


しかし、ご存知の通り、大阪大会ではブラスバンドの演奏は認められていない。


それが大きく影響しているのか、初優勝以降、なかなかブラスバンドも含めた野球応援の機会に恵まれない不運から、チャンステーマの定着含め、応援スタイルの確立には至らず、現在大阪桐蔭の野球応援にはチャンステーマが存在しない。


チャンステーマとは、野球応援の顔であり、応援の終着点でもある。


チャンスは相手のピンチでもあり、特に守備側は平常心をなかなか正常に保てない場面。


その際に、応援スタンドの盛り上がりや圧力の空気がグラウンド上の選手にも伝染し、選手(守備側)の一瞬の心の揺れを生むのであれば、試合の結果を左右しかねない重要な局面となり、守備側にプレッシャーを与えるチャンステーマは何よりも重要視されるべきものである。


選手だけでなく、応援している側や中立であるはずの観客も、「このチームはチャンスになればこの曲がくる」と認識することで、チャンスを求める。


そして、いざその曲が流れれば、スタジアムの空気はガラリと変わり、否が応でも守備側はピンチを自覚し、それが精神的なプレッシャーにもつながる。

大阪桐蔭の応援にはパターンがない


例えが適切かわからないが、長寿番組の話をしよう。


たとえば『アンパンマン』では、アンパンマンがどんなに顔を食べられて力が出なくなっても、ジャムおじさんが新しい顔を作ってくれて、最終的にアンパンマンが悪戯をするバイキンマンを倒すストーリーを誰もが知っている。


水戸黄門』ならば、御老公の脇にいる格さんが「この紋所が目に入らぬか」という決め台詞とともに印籠を出し、御老公が悪人に鉄槌を下すというストーリーを誰もが知っている。


そういったストーリーの短絡的なワンパターンを繰り返すことが長寿番組につながる、といった社会学がある。


それと同じように、チャンステーマ→得点という法則を観客に植え付ければ、たとえ選曲が得点圏即チャンステーマというワンパターンであっても観客は脳内で逆転を連想し、それを期待することで空気が出来上がる。


野球応援の目的は何か、人によって考え方は異なると思うが、結局のところ球場の空気をつくる、『砂の栄冠』の言葉を借りれば、「球場全体を宇宙空間にする」ことに収束されるのではないか。


いくら演奏テクニックがあってレパートリーが豊富で軽快なリズムで応援演奏していても、最終到達点がどこなのか、パターン化されない応援から宇宙空間を生み出すことは困難である。

「応援」より「演奏」


あくまで私が受ける印象の話だが、今の大阪桐蔭の応援スタイルは、そういった空気感を生み出すための「応援」ではなく、自分たちの実力を全国に示すための吹奏楽部のための「演奏」になっていないだろうか。


大阪桐蔭はその流れるような軽快なリズムで演奏される圧倒的なテクニックで観客を魅了するが、それは観客が聞き惚れるものであって、共にグラウンド上の野球部を応援しよう!というものには映らない。


たとえば、智辯和歌山であれば、初回の大迫力のアフリカンシンフォニーから始まり、中盤以降、得点圏にランナーを進めると満を持してチャンステーマの「ジョックロック」に移行し、智辯一色の空気感を演出、試合を見ていなくても応援の様子を見ればその試合がどんな試合だったのかがイメージできる。


一方で大阪桐蔭の応援は、盛り上がりどころが一体どこなのか、ランナーなしの場面も決定的なチャンスでも選曲は一貫しているため、試合状況と応援がリンクしない。


〆にラーメンを期待していたら前菜が出てくることもある。


大阪桐蔭に決定的に足りないのはそこであろう。


まあ、大阪桐蔭ほどのチームであれば、そんな空気感を気にしなくてもいい圧倒的な戦力と経験があるわけだが…。

他校に学べ


チャンステーマの重要性を説いてきたが、強豪校の多くは「この学校といえばこの曲」というような代名詞となる曲がある。


智辯の「ジョックロック」や平安の「あやしい曲」、天理の「ワッショイ」、横浜高校の「第五応援歌」、習志野の「let's go ならしの」などがそれにあたる。


しかし、そういった曲は終盤戦になるとエンドレスで使用されることがある。


飽きるくらいがちょうどいいとは思うが、耳の肥えた客はそれさえ許してくれないこともある。


そこで日大三高が取り入れているのが、チャンステーマを2曲にしてそれを交互に演奏するというものである。


2009年に、同校OBの竹島悟史さん(NHK交響楽団)が作曲した「Sunrise」と「March“The Hero”」のメドレーからなるのが、日大三高のチャンステーマ「Chance Chance Chance」であり、それぞれコール部分含め35小説、42小説の長尺曲となっている。これは飽きない。


高岡商業も、名物応援曲「The Horse」と「コンバットマーチ」の交互演奏をチャンステーマとして使用している。


選曲の工夫が光ったのが、札幌第一


昨年の北海以降、オリジナル曲ブームが起きている北海道では、札幌第一が今大会「一高コンバット」を初披露、それだけでなく、メンバーの何人かがOBというサカナクションの楽曲も応援曲として採用するなど、ならではの選曲も行った。


応援曲の選曲をする際、オリジナル曲でなくても、その学校に縁の深い人物の曲だったり、郷土の曲を使用すると、親近感が生まれる。


この「親近感」も宇宙空間をつくる際に重要な要素の一つとなる。

今後への期待


様々なサンプルを示してきたが、大阪桐蔭の今のスタイルを全面的に批判しているわけではない。


試行錯誤を経て現在のスタイルに結びついてるとしたら、それが大阪桐蔭の成果であり、個性でもある。


ただ、不満を言うとしたら、自らの演奏の実力を観客に見せたいという色気が見え隠れしてしまうことだ。


演奏の巧拙が野球応援においては重要なウェイトを占めないということを甲子園のファンは知っている。


その根本的な考え方を改めなければ、大阪桐蔭の野球応援の進展はないのではないか。


少々偉そうな意見ばかりを述べてきたが、大阪桐蔭高校野球界を引っ張る存在だからこそ、かつてのPL学園のように野球応援でも他校の見本となれる存在であってほしいという願いを持っているのは私だけではないはずだ。


大阪桐蔭ほどの学校であれば、そんな変革容易いのでは?と思ってしまうが…。

第2回 五島卓道(木更津総合) 選手主導が生み出す無色の野球

新千葉の盟主・木更津総合


以前、千葉県の高校野球史の特徴として、時代ごとにリーダー格となる学校が移り変わっていることを指摘したが、現在の千葉県の高校野球界を引っ張るのは間違いなく木更津総合である。


記憶に新しい2016年の甲子園春夏連続ベスト8をはじめ、関東大会は2008年の春と2015年の秋の2度優勝と、県外との対戦でも着実に成績を残している。


夏の千葉大会では、2003年の甲子園初出場以来、ベスト16以上に進出できなかったのは2011年のみ(この代の秋は県大会優勝)という、群雄割拠の千葉県にあって抜群の安定感を誇る。


この木更津総合を1998年の11月(当時は木更津中央)から率いているのが、五島卓道監督である。

過去10年(2007~16)の夏の千葉大会監督勝率10傑

10位.765(26-8) 小枝守(拓大紅陵) 準優勝1回 4強1回
9位.767(33-10) 森下倫明(東海大浦安) 4強2回
8位.778(28-8) 松田訓(流経大柏) 4強2回
6位.780(32-9) 櫻内剛(市船橋) 優勝1回 準優勝1回
6位.780(32-9) 松本吉啓(千葉経大附) 優勝1回 4強1回
5位.791(34-9) 尾島治信(成田) 優勝1回 4強1回
4位.809(38-9) 相川敦志(東海大望洋) 優勝1回 準優勝2回 4強1回
3位.810(34-8) 持丸修一(専大松戸) 優勝1回 準優勝1回 4強3回
2位.840(42-8) 小林徹(習志野) 優勝1回 準優勝2回 4強3回
1位.893(50-6) 五島卓道(木更津総合) 優勝4回 準優勝1回 4強1回


各校の戦力差があまりなく、公立高校含め「戦国千葉」と称される千葉大会において、五島監督が率いる木更津総合の戦績は頭一つ抜け出していることをこのデータは示している。

無色の野球


では、木更津総合の強さはどこにあるのか。


わからない、説明ができない、というのが個人的な感想である。


たとえば、全盛期の銚子商業習志野拓大紅陵市船橋であれば、共通して豊富な練習量に裏付けされる緻密さと豪快さの融合が見られたが、近年の木更津総合にそういった細かい野球やパワフルさは見られない。


数年前の成田や近年の東海大望洋のように、毎年140キロを超える本格派を中心とした投手力のチームかと言えばそうでもない。


全盛期の千葉経済や習志野のように、采配によって奇襲を仕掛け、ゲームを流動的なものにするという面もあまり見られない。


カバーリングや全力疾走も徹底できているかという点も首を傾げる部分である。


要するに、色がないのである。


しかし、この無色こそ木更津総合の特長であり、色なのかもしれない。


高校野球大学野球などの強豪チームに対して、我々観戦者はとかくその原因を限定的に探ってしまうが、そういったものは要因の一つに過ぎず、結局勝つチームというのは総合的なバランスの良さに収束されるのではないか。


たとえば、全盛期の智弁和歌山日大三などは、圧倒的な打撃力がクローズアップされるが、投手力や守備力も全国レベルであったからこそ甲子園でも勝てたのだ。


打つチームが勝つのではなく、投げて走れて打てて守れるチームが勝つチーム、身も蓋もない話だが、この結論に尽きる。


その意味で、特別打てて守れて走れるわけではない木更津総合が、群雄割拠の千葉で突出した戦績を残しているのは、そのバランスの良さが起因しているのではないだろうか。

戦力差を埋める「考える野球」


だが、原因はそれだけに求められない。


五島監督は常々選手に「考える野球」を提唱している。


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自分に必要な練習は何かを考え、工夫してやると伸びてくる。引き上げられるために何をすればいいのか、考えて行動するのは野球以外でも同じ


ミーティングでは常に選手に発言を求め、朝練も含め練習時間の1/4以上を自主練習にあて、その間五島監督は一切口を出さない。

試合前に大まかな作戦は話すが、試合中は基本的には選手に任せる。言わなくても考えてできる。そういう選手でないと活躍できない


2016年の甲子園で活躍し、大会後には日本代表にも選出された早川隆久はこう語る。

手堅くバントして出塁してというのが、うちの野球部のカラーなんです。ホームラン攻勢みたいな派手なチームじゃないので。あと、『考える野球』を追求していくのが、五島監督の野球です。ミーティングはもちろん、監督から常に発言を求められるので、どうすれば強くなれるのか、みんないつも考え続けています。


木更津総合の野球はオーソドックスであるが、采配の一つ一つをチームが共通理解し、選手一人一人がゲームを冷静に見極められる余裕を持ったチーム、というのが私の印象である。


序盤や中盤に先制を許したり、終盤まで競った展開でも、決して焦ることがない。


昨夏の千葉大会初戦柏南戦、粘り強い相手に対して1点差の辛勝となったが、内容は木更津総合が圧倒していた。


早川という絶対的な存在があったのはもちろんだが、選手一人一人が最後に1点勝ってればいいという後ろから逆算したゲームプランを共通認識しているのか、序盤にチャンスを逃したり同点に追いつかれても焦燥感がまったく感じられない。


ピンチになっても常に落ち着いているからこそ、間合いをしっかり取った上で失点を最少に抑えられる。


2016年の千葉大会を通じて、1イニングに大量点を失ったのは準決勝の千葉経大附戦の5回みで、それ以外のイニングは2失点以内に抑えている。


その経済戦も無駄な四球やエラーが絡んでいないことから、単に経済が一枚上だったということだろう。


3回戦の検見川戦では、3点差の9回に無死満塁のピンチを迎え、早川が緊急登板となったが、もう1人ランナーを出せば勝ち越しのランナーとなる場面、早川大澤バッテリーが死球を恐れない執拗なインコース攻めを披露し、3者連続三振を奪う圧巻のピッチングで締めくくった。


これも、バッテリーが内角の制球に絶対的な自信を持っていたことの他に、1点2点を許しても構わない、1点に固執しない余裕のある考え方をしていたからこそ、大胆な配球が生まれたのではないか。


また、木更津総合というと、その接戦の強さから、勝負所で一本が出る勝負強いチームだと認識されがちだが、数字だけ見れば千葉大会の5回戦以降の得点圏打率は.272とチーム打率.275よりも低い。


それにもかかわらず、我々観戦者含め相手チームが”印象”という曖昧な指標で木更津総合を分析してしまうこと自体、精神的な優位を木更津総合に与えてしまっている、それも強さの要因の一つだろう。


総括すれば、木更津総合は自分自身あるいはチームを客観視できる大人なチームであり、その原点は五島監督が常日頃選手に考えることを求めているからであろう。


2016年の千葉大会は、その五島野球の集大成とも言える。

五島野球の原点


五島監督は岐阜県の関高校から早稲田大学に進み、社会人の川崎製鉄神戸で内野手として28歳までプレーした。


その後、川崎製鉄神戸でコーチを2年、監督を3年務めた。その時に甲子園常連校出身の選手たちが指示を待っているだけで、自分から動けないことを感じたという。


また、社業の方では、営業マンとしてトップクラスの成績を残し、31歳の時には係長にまで昇格している。


そういった指導者として、営業マンとしての社会人時代の経験が、現在のの指導に結びついてる。


1988年、早稲田大学時代の恩師・石山建一氏の知人でもあった稲尾和久氏(元西鉄など)に乞われ、当時野球部強化に乗り出していた暁星国際の監督に就任する。


当時の暁星国際は、帰国子女を幅広く受け入れ、併設されている中学校含め900人近い生徒のほとんどは県外から集まり、約半数は海外生活経験者という国際色豊かな進学熱の高い学校であった。


野球部は、長嶋茂雄氏の次男・正興が在籍していたが、創部9年で夏の最高成績は1回戦突破。


学校の「文武両道」の方針で、学校側は全国から監督選びに奔走したがなかなかあてが見つからず、そこで白羽の矢が立ったのが、当時川崎製鉄神戸で管理職を務めていた五島監督であった。


暁星国際監督時代は、社会人時代の経験と高校野球に適合させるように試行錯誤を繰り返した。


五島監督の指導の原点は、川鉄神戸の監督から暁星国際の監督になったその間にある。

小笠原道大


1988年11月の暁星国際監督就任に伴い、翌89年に入学した強化1期生には小笠原道大(現中日2軍監督)や北川哲也(元ヤクルト)ら12人がいた。


当初、小笠原はスカウトされる予定はなかったが、チーム事情により獲得することになる。五島監督が回想する。

千葉西リトルの2年生で欲しい選手がいて、その選手を獲る代わりに頼まれたのが、どこからも声のかからない小笠原だった。


”左打者”というだけで入学した小笠原は、五島監督の印象についてこう語る。

小柄だが、威圧感、存在感のある監督だった。


対して、五島監督が抱いた小笠原の第一印象はのちのプロでの活躍を期待できるものではなかった。

だいたいどの選手も初めてプレーを見たときに「こいつはプロに行くな」というのがわかる。おまえだけ例外だった。おまえに関しては、プロなんてとんでとないと思っていたんだけどなぁ。


就任1年目の1989年の夏は、野口寿浩(元日本ハムなど)擁する習志野に敗退。


新チームでは、レギュラー全員下級生ながら秋春連続でベスト8まで進出し、2年目の1990年の夏にはさらなる快進撃を見せる。


準々決勝で拓大紅陵、準決勝で習志野と千葉を代表する両校を破ったことで、当時の千葉日報に「県球史に新たな1ページ」と見出しが乗るほど、新たな波を予感させた。


しかし、決勝で成田に完敗し、試合後、五島監督は涙を流した。

千葉は伝統ある学校が多いから、内心では5,6年で甲子園に行ければいいと思っていた。この時思いがけなく決勝まで進んだけれども、やはりいろいろな意味で時期尚早だった。

当時は勝ちに飢えていて、まだ余裕がなかったからなぁ。後にも先にも生徒の前で涙を見せたのは、あのときが唯一だよ。


下級生中心のメンバーだっただけに翌年以降の甲子園出場が期待されたが、翌91年の夏は、初戦で銚子商業に敗退。


そのチームで小笠原は「嫌だった」というキャッチャーを務めた。


その意図を五島監督はのちの小笠原にこう説明する。

当時のエースは北川哲也。バッテリーの関係でいうと、北川がリードしてキャッチャーが合わせるというコンビだった。気性の激しい北川と互角にぶつかり合いケンカもしながら、そのよさを引き出すことのできる強くて落ち着いた性格を持った選手とバッテリーを組ませたいと考えた時に小笠原が思い浮かんだ。このことを説明しても、当時ではその意味を理解するのはおそらく難しいと思ったから言わなかったんだよ。


まさかの初戦敗退を喫し、強化1期生が引退。


小笠原は地元のNTT関東に進むことになるが、五島監督が大きく関わっている。


有名な話だが、小笠原は高校通算でホームラン0本であったにもかかわらず、五島監督はNTT関東の首脳陣に対して、「こいつは30本打っている」と嘘をつき、採用を依頼、セレクションを受けられるようにセッティングした。


実は内々に川鉄神戸にも内定していたが、「鉄関係は嫌」という小笠原の漠然とした考えも考慮し、NTT関東にコンタクトをとったのだ。

集めた野球部員は卒業後の進路こそもっとも大事。


五島監督のポリシーである。


小笠原は、暁星国際に進んだこと、五島監督との縁をこう語る。

暁星国際高校に拾ってもらった自分には「運がある」と前向きにとらえることにした。そして、その後の僕の野球人生を考えると、この高校に入学したからこそ、プロ野球への道が開けたといっても大げさではなかった。


小笠原は、木更津総合が甲子園に出場すると今でも差し入れを欠かさない。

同じ木更津市の木更津中央へ


北川、小笠原という強化1期生が卒業した暁星国際は、その後も秋や春の大会では優勝する地力はつけるもののなかなか甲子園に届かない。


早急な結果を求めていた学校側は1993年五島監督を解任した。


解任後、数年間暁星国際で教鞭をとっていた五島監督を、同じ木更津市の木更津中央高校の真板益夫理事長が直々に監督就任を要請、当初は断り続けていた五島監督も熱心に足を運ぶ真板理事長の熱意により受け入れ、1998年11月に木更津中央の監督に就任した。


当時の木更津中央には120人部員がいたが、「サボるやつはグラウンドに入れない」と厳しく接し、その数は半減した。


五島監督の方針で、毎年新入部員は20名程度の少数精鋭となる。

私がきちんと(進路含め)みれるのはその人数が限度です。


就任2年目の夏に千葉大会準優勝、5年目の2003年、清和女子短大附属高と統合し、木更津総合高校に校名変更した節目の年に悲願の甲子園出場を果たす。


その後の活躍は承知の通りである。

指示しない指導法


五島監督就任以降、着実に成績を残していく木更津総合だが、主力選手でも高校野球を最後に本格的な野球を辞めてしまう選手も多い。


2012年の3番バッターでプロにも注目された三國和磨(現在は徳島インディゴソックスに所属)や2013年に甲子園出場をした時の4番バッター谷田涼、昨夏4番を務めた鳥海嵐万などはその例である。


その要因として考えられるのは(真相はモノホンライターが取材で明らかにしてほしいところだが)、木更津総合の選手は自分を客観的に見れる、現実的な考えの選手が多いこと、五島監督やスタッフも、大学の推薦やセレクションは紹介するものの、それを強要しない、あくまでプレイヤーファーストの考えを貫いていることなどが挙げられる。


五島監督は選手にああしなさいこうしなさいと指示せず、選手に対して考える機会を与えるだけで、考えた結果の行動を決して責めることはない。

指示をするより時間がかかりますけれど、自分で気づく方が一時的なもので終わらず長く続きますよね。


そうして自分で気づいた、考えたことについて、第3の目線で精査することを求める。

同じチームのピッチャーと、「ピッチャーから自分はどう見られているのか」っていう会話をするのって大事じゃないですか。そういう客観的な意見を聞かないで、「僕はがんばっています!」というのが多すぎる。人との会話をしないで練習だけ頑張ろうとしても無理です。

12月に千葉県の御宿で合宿します。そのミーティングの時に「3分間スピーチ」を皆の前で披露します。自分の考えをまとめる力や話す力がつきますし、人前で自分の考えを言えるようになれば、自然に自覚や責任を持てるようになります。


そうやって出した答えが尊重されるからこそ、進路先も本人の意思に任される。


一般就職をする際も、五島監督以下スタッフが最後までサポートをする、それが五島監督のポリシーだ。


http://clipee.net/7781/2

選手主導のチーム


今や木更津総合の代名詞とも言える「全力校歌」も選手の提案から生まれた。

94回大会(2012年)の時のキャプテン(國廣拓人)が、朝礼で校歌を歌わない選手に「グラウンドで歌うのに、なんで朝礼でちゃんと歌わないの」と言ったのがきっかけで、みんな全力で歌うようになりました。残念ながらその年の甲子園は1回戦で負けてしまい、歌うことはできませんでしたが、翌年、キセキ的に連続出場できまして、披露することができたんです。


選手の練習用のユニフォームの肩には「元気」と書かれている。


これも選手が考えてやり始めたことで、その間五島監督のアドバイスは一切ない。


木更津総合が秋や春より夏に好成績を収めるのも、試合を重ねるごとに選手の考えが成熟され、それが試合に反映されるのが最後の夏になるという面もあるのだろう。


習志野も選手の感性が重視されるが、習志野木更津総合ではその形態はやや異なる。


習志野の場合、試合を支配しているのは圧倒的存在感を放つ小林監督である一方、木更津総合は五島監督の試合中の指示はほぼなく、試合を支配しているのはプレーしている選手たちである。


思えば入学時野手だった早川が投手にコンバートしたのも、打撃練習で早川の球質に気づいた当時の3年生の進言であった。


選手が監督に意見を素直に言える。

(早川は)僕の言うことを聞かないこともありますよ。それでいいんです。全部を聞いていたら自分を見失ってしまいますからね。


絶対的な思想を作らない、それが五島野球の根本であり、”無色”の正体である。


参考

魂のフルスイング

魂のフルスイング



五島卓道
1954年6月19日岐阜県美濃加茂市出身

岐阜県立関高校

早稲田大学

同期に吉沢俊幸(元阪急など)

川崎製鉄神戸(1977年~1982年)

川崎製鉄神戸コーチ

川崎製鉄神戸監督

暁星国際高監督(1988年11月~1993年7月)

関東大会

出場 2回(1992秋、1993春)

通算 0勝2敗
千葉県大会

優勝 2回(1992秋、1993春)
準優勝 1回(1990夏)
8強 4回(1989秋、1990春、1991春、1992夏)

木更津中央(総合)監督(1998年11月~)

甲子園大会

出場 7回(2003夏、2008夏、2012夏、2013夏、2015春、2016春夏)
8強 2回(2016春夏)

通算 9勝7敗
関東大会

出場 6回(2004秋、2008春秋、2010秋、2014秋、2015秋)
優勝 2回(2008春、2015秋)
準優勝 1回(2014秋)

通算 11勝4敗
千葉県大会

優勝 9回(2003夏、2008春夏、2010秋、2012夏、2013夏、2014秋、2015秋、2016夏)
準優勝 4回(2000夏、2004秋、2007夏、2008秋)
4強 6回(2004夏、2005夏、2007春秋、2012春、2015夏)
8強 11回(2001夏、2002秋、2003春、2006秋、2009春夏秋、2011春、2013春、2014夏、2016春)

甲子園通算 9勝7敗 勝率.563
関東大会通算 11勝6敗 勝率.647

主な教え子

北川哲也(暁星国際日産自動車~ヤクルト~シダックス
小笠原道大暁星国際NTT関東日本ハム~巨人~中日)
徳永隆晴(暁星国際東海理化
永井亮一(暁星国際〜日本大~いすゞ自動車
マーク・ランドル(暁星国際駒澤大本田技研
古川裕生(暁星国際駒澤大新日鉄君津)
相川良太暁星国際東海大オリックス
滝田優司(木更津中央〜木更津総合コーチ〜市原中央部長)
小泉雄史(木更津総合東京農業大NTT東日本
大島吉雄(木更津総合〜早稲田大〜島根・矢上高監督〜木更津総合コーチ)
井納翔一(木更津総合〜上武大~NTT東日本DeNA
平野靖幸(木更津総合東海大木更津総合コーチ)
岩崎瞬平(木更津総合桐蔭横浜大JFE東日本)
地引雄貴(木更津総合〜早稲田大〜東京ガス
佐藤優介(木更津総合〜佛教大~日本生命
黄本創星(木更津総合〜早稲田大)
高橋慎之介(木更津総合〜米留学〜巨人育成)
三國和磨(木更津総合〜四国IL徳島)
高野勇太(木更津総合関東学院大〜四国IL高知)
檜村篤史(木更津総合〜早稲田大)
鈴木健矢(木更津総合JX-ENEOS
早川隆久(木更津総合〜早稲田大)

第1回 小林徹(習志野) 「ロボットではいけない」感性を重んじた野球

千葉県の高校野球史の特徴は、年代ごとに勢力図がはっきりと移り変わり、それぞれリーダー格となる学校が存在したことにある。


たとえば、1960,70年代は、「習銚時代」とも言われ、おおよそ習志野銚子商が交互に甲子園に出場する時代が続いた。


成東や千葉商など、次点の学校はいくつかあったが、千葉県中の学校が打倒銚子商、打倒習志野を合い言葉に切磋琢磨した時代で、ピラミッドの一番上に君臨したのがこの2校である。


そして、習志野が1967年、1975年の2度、銚子商が1973年に全国制覇を果たし、千葉県は「野球王国」と呼ばれるようになった。


その後、1980年代に台頭したのが、小枝守監督率いる拓大紅陵である。


緻密さと豪快さを兼ね備えた野球で、創部10年足らずながら甲子園出場5回、千葉県の顔となった。

盤石の強さを誇った1990年代の市立船橋


続いて、1990年代新興勢力として頭角を現したのが、市立船橋


この市立船橋で、1991年4月から監督を務めていたのが、現在習志野高校で指揮を執る小林徹監督である。


1991年の春、就任後すぐの県大会で準優勝し、関東大会に出場。


その後もコンスタントに上位に顔を出すようになり、1993年の夏に2年生の小笠原孝(現中日2軍投手コーチ)を擁し、悲願の夏の甲子園初出場(同年春、コーチ時代の1988年春にも出場)。


1994年の春も県を制したが、常に結果を残したのは夏の大会であり、1996~98年には、1948年の成田以来県50年ぶりとなる夏の大会3連覇を成し遂げる。


出場校数の増加や各校の戦力差の縮まりを考えれば、1940年代と1990年代の1勝の価値の違いは容易に想像できるだろう。


98年の市船の夏3連覇は、千葉県高校野球史に残る偉業である。


夏の大会では、その翌年からも3年連続のベスト4進出し、当時の市立船橋は千葉県のリーダーとして他校を引っ張る存在となった。


現在、日体大柏で監督を務めている金原健博氏が、京都韓国学園(現・京都国際)でチームを率いていた1990年代、千葉県の高校野球といえば市立船橋であり、小林監督であったとの当時の印象を回想する。


そのためか、金原監督は今でも小林監督に一目置き、対戦する際は並々ならぬ対抗心を燃やしているとも聞く。


これは金原監督に限らず、当時の他県の多くの高校野球関係者は同様に「千葉県と言えば小林徹」のイメージは抱いていたのではないか。


そのくらい、当時の千葉県で小林徹の名は絶対的だった。

監督に執着心はない


小林監督は2001年秋に千葉県を制したその年度いっぱいで市立船橋から松戸南へ異動となる。小林監督が述懐する。

松戸南の最初の3年間はバレー部顧問。野球の現場から離れて悶々とするのかと思っていたら、案外そうでもありませんでした。


この松戸南への異動が、その後習志野に赴任するための布石だとも言われるが、実際のところは不明である。


松戸南には計5年間在籍し、最後の2年間は野球部の部長を務めたが、若い監督の邪魔になるのを避け、野球部の練習には一切顔を出さなかったという。


習志野に異動となった2007年、このとき習志野の監督を務めていたのは、小林監督の習志野時代の2つ上の先輩である加藤孝順氏だったが、翌春、加藤氏が異動となり、2008年の春に母校・習志野の監督としての機会が巡ってくる。

部長と監督の職を交代したんですが、僕が一番嫌なのは、相手の先生を追い出したみたいになってしまうこと。でもこのときは、そんなの関係ないよと言ってくれていたのでそれだけは救いでした。


あくまで学校人事に任せ、縁があれば努力を惜しまないというスタイルは、市船時代から変わらない一貫したものだという。


市船の監督時代には、学校の人事についてこう語っている。

紙切れ一枚のこと。野球部のないところでも、それは全くかまわない。逆に、私学で指導するような気持ちは一切ありません

異彩を放った2011年の甲子園


習志野の監督に就任した2008年、夏こそ3回戦敗退に終わるが、秋は二次予選から勝ち上がり、千葉県制覇、関東大会も準優勝となり翌春の甲子園出場(33年ぶり)を決める。


2010年は、山下斐紹(現ソフトバンク)、福田将儀(現楽天)らを擁し、春の関東大会準優勝。


山下を中心とした長距離打者が豪快にホームランを打ち込むこともあれば、福田を中心とした俊足打者が走塁で相手の隙を突くという、柔剛を兼ね備えたその野球は、1980年代の拓大紅陵に匹敵するほど。


「柔」の部分である相手の隙を突く野球は、小林監督の教えの賜であり、その手腕がいかんなく発揮されたのが、2011年の夏の甲子園である。


初戦の静岡戦は宮内和也(NTT東日本)のホームスチールが大きなトピックとして持ち上げられるが、2回に3打者1ヒット2犠打4球で得点を奪った攻撃や、サインミスに終わったが1死2塁の場面でボーク後の初球にヒットエンドランを試みるなど、セオリーではなかなか考えられないような作戦は、習志野の特徴ともいえる。


2回戦の明徳義塾戦では、初回先頭四球の次の初球ヒットエンドランを仕掛け見事に成功、中盤の3塁のチャンスでは2番打者の福山慎吾が初めからバントの構えをしてそのままスクイズを敢行するなど、多彩な攻撃のパターンがあるだけでなく、同じ作戦をするにしてもその形態は微妙に変わる。


3回戦の金沢戦は好投手釜田佳直楽天)相手に打順を組み替え、接戦をモノにした。


この3戦で勝利投手はすべて違う投手であり、1大会で勝利投手が3人という記録は、長い高校野球の歴史の中でも1992年の拓大紅陵に次ぐ歴代2位の記録である。


また、千葉大会と甲子園では微妙にオーダーが変わる。


千葉大会準決勝・決勝で3番を打った宮内は甲子園では不動の1番として固定化、千葉大会準々決勝で怠慢プレーをして以降スタメンを外れていた小山優樹は甲子園で全試合サードスタメンを務めた。


その宮内が4試合で11打数5安打3打点で出塁率は.667と1番打者としての役割を十二分に果たし、小山は4試合で打率.364とそれぞれ起用がハマった結果となった。


千葉大会での終盤戦は、どちらかといえば勝つ見込みがある中で、確実性のある選手を主に起用したが、甲子園では確実性よりも爆発力を期待した選手起用となった。


このあたりも策士と呼ぶにふさわしい。

ベースとなっている石井監督の教え


1967年に習志野の投手として、1975年に習志野の監督として全国制覇を果たした恩師・石井好博氏について小林監督はこう語る。

当時から先輩であり、監督であり、雲の上の存在です。いまこうしている筋道をつけてくれたのも石井監督。一番ラッキーだったのは、監督さんの下で野球ができたことです


小林監督を指導者の道に導く鶴の一声も、石井氏からである。以下石井氏

頭がいい子なので、上で野球をやるよりは指導者がいいんじゃないか、ゆくゆくは習志野の監督にも、というつもりはあった。だから、高校の教員というのはどうなんだ?と水を向けたし、学生時代に指揮を執らせたことも・・・


そんな石井氏が最も大事にしたのが、”感性”だった。


高校時代、学生時代を通じて、石井氏の下、小林監督は感性を磨いた。

ロボットではダメだ、お前たちが野球をやるんだと言っておられました。練習試合でも監督なりのゲームプランがあるはずなのに、たとえ選手がミスをしても黙っている。そして、次の試合でまた同じ選手がミスすると、そこでお前ダメねとメンバーから外す。何がダメなのかは言いません。もし試合に出たいのなら、自分でどうあるべきかを考えなさいということなのです。こうした石井先生の教えが、僕の指導の素地になっています


このような、選手に1から10まで教えない指導法は、まさに小林監督が石井氏から踏襲したものといえる。


選手にカードの色だけを提示し、そこには説明書はない。


そのカードの色の解釈は各々に任され、指導者の役目はそこで終わる。


小林監督、すなわち石井氏の指導者像とは、先頭に立って選手に道筋を与えるものではない。


市船を率いた当時の小林監督は指導法についてこう語っている。

僕らが主体になってはいけない。僕らはスタッフであって、ラインではない。ラインは選手。スタッフはラインをサポートし、その逆であったらそれはいいチームとはいえない

感性の野球


選手が感性を磨くためのサポートを最大限する。


そしてその感性の野球こそ伝統の習志野野球の根底にある。


なぜ、感性を何よりも重要視するのか。


一つとして、石井監督の教えだから、というのはあるだろう。


また、野球に当てはめれば、その特殊性を挙げる

野球という競技には、特殊性があると思っているんです。突出した選手がいるわけでもないチームでも、人間性をうまく生かすことによって十分競う集団になれる。技術だけで結果が決まってしまうようではつまらない


技術の不足は感性で補うことで元々ある戦力差を埋めることができる、ということだろう。


感性というと、生まれ持った先天的なもののようにとらえられがちだが、トライ&エラーの繰り返しの中で、深く思考する経験から得られる後天的な部分が大きい。


まずは、非効率的であろうと、多くの情報に触れることが感性を磨く第一歩であり、何度か試していくうちに、成功する時としない時の条件を細分化してみることで、一つの法則性が見えてくる。


そのことに気がつくことが、感性ではないだろうか。

雨が降ることを予想して傘を持ってくる選手と、情報に触れずに持ってこない選手では意識に差が出る


小林監督は選手に「ニュースを見ろ」と口酸っぱく言う。


直接野球とは関係ないかもしれないが、日頃から多くの情報に触れることで「気づく力」を習慣化させる。その訳をこう語る。

野球でも私生活でも、何かに気づくという感性はこの先ずっとつながっていくと思うんです。社会人になっても、気配りやひらめきがある人って重宝されますから


これが感性を何より重要視する一番の理由かもしれない。


そうして磨いた感性が何をもたらすか、それは、BFA U-15日本代表監督の伊藤将啓監督ら石井氏の教え子の多くが、中学・高校野球指導者として活躍している状況を見れば明白だろう。

ネット裏の常連


小林監督は、今でも大会期間中になると毎日どこかしらの球場で試合を観戦しながら相手の考えや表情などをじっくり観察し、感性を磨く。


2011年の夏の甲子園では、自分たちの試合がない日はほぼ毎日ネット裏で試合を観戦していたことも話題に上がった。

よその試合をよく見るのも感性を磨くため。試合を俯瞰したり、ブルペンからベンチまでミクロで見たりして感じる力を磨く。テレビでは決して感じられないことも多く、目の前で試合を見ることが、ナマの教材なんです


観戦を重ねた小林監督の試合中の選手への指示はいたってシンプルである。


「内角を投げてみな」「カーブを狙ってみな」


なぜ内角か、カーブかは説明されない。


一見、何となくの指示にも聞こえることも、そこには何試合も観戦して気づいたいくつもの根拠が存在するのだろう。


「なぜこの人はこんなことを言うのか」選手にそう思わせれば小林監督の目指す野球が近づく。

ミステリアスな一面


意図的なのかはわからないが、小林監督はメディアのインタビューに対しても、「この人は何を考えているのか」と感じさせることが多い。


1993年に夏の甲子園でベスト4に進出した際のインタビューで、「怖いものはなにか」という質問に対して、「エースの小笠原(孝、現中日2軍投手コーチ)のテストの点数も一つだが、小笠原はまだましで、4番にゴリラみたいな顔の小川(幸二、元王子製紙)という選手がいて、あれは顔と同様に頭ももはや人間のレベルではない」と淡々と答えているが、これは冗談なのか本気なのか(笑)


また、小林監督の勝利監督インタビューは実に味気ない。


常にうつむき加減でインタビュアーと目を合わせようとせず、「うちは力がない」というテンプレートを繰り返し口にし、本心かわからない相手への賛辞を送る。


そう書いていて、かつてこんなことを言っていたことを思い出した。

テレビもできれば僕は映さないでもらいたい。だって顔がしれてしまうことで、駅前の立ち食いそば屋に寄るのを躊躇するとか、いいことがあまりないから


シャイであり寡黙であり、世間に色目を使わない、そんなところも小林監督の魅力だろう。







参考

監督と甲子園6

監督と甲子園6



小林 徹(こばやし とおる)
1962年4月29日生まれ

習志野高(1980夏 千葉大会優勝 甲子園2回戦敗退)

1回戦 習志野2×-1倉吉北(延長10回)
2回戦 習志野0-7東北
甲子園の投球成績 2試合 17回 215球 20安打 7三振 5四死球 8失点 5自責点 防御率2.65

青山学院大(1981年4月~1985年3月)

市船橋高コーチ(1985年4月~1991年3月)

市船橋高監督(1991年4月~2002年3月)

甲子園大会

出場 4回(1993春夏、1996夏、1997夏、1998夏)
4強 1回(1993夏)
8強 1回(1997夏)
通算8勝5敗

関東大会

出場 5回(1991春、1992秋、1994春、1996春、2001秋)
4強 2回(1992秋、1994春)
通算6勝5敗

千葉県大会

優勝 6回(1993夏、1994春、1996夏、1997夏、1998夏、2001秋)
準優勝 2回(1991春、1992秋)
4強 7回(1994夏、1996春秋、1998秋、1999夏、2000夏、2001夏)
8強 6回(1991秋、1992秋、1993春、1999春、2000秋、2001春)

松戸南高(2002年4月~2007年3月)

習志野高監督(2007年8月~)

甲子園大会

出場 2回(2009春、2011夏)
8強 1回(2011夏)
通算4勝2敗

関東大会

出場 5回(2008秋、2010春、2011春、2012秋、2013秋)
優勝 1回(2011春)
準優勝 2回(2008秋、2010春)
通算12勝4敗

千葉県大会

優勝 6回(2008秋、2010春、2011春夏、2012秋、2013秋)
準優勝 2回(2013夏、2015夏)
4強 4回(2009春夏、2010夏、2016夏)
8強 5回(2011秋、2012春夏、2013春、2014秋)


甲子園通算 12勝7敗 勝率.632
関東大会通算 18勝9敗 勝率.667

主な教え子

中村安孝(市船橋~立正大~ローソン)
伊藤夏樹(市船橋~東京農業大シダックス
石神康太(市船橋~日本大~習志野高コーチ)
藤井浩一(市船橋~東京ガス
小笠原孝市船橋~明治大~中日)
小川幸二(市船橋~新王子製紙春日井)
興松重典(市船橋~東京農業大バイタルネット
長尾康博(市船橋~明治大~新日鉄君津)
相馬幸樹(市船橋~大阪体育大シダックス中央学院高監督)
福元淳史(市船橋~中央大~NOMOベースボールクラブ~巨人)
増村慎一(市船橋~東京農業大JR東日本東北)
林昌範市船橋〜巨人〜日本ハムDeNA
村田和哉市船橋〜中央大〜日本ハム
山下斐紹(習志野ソフトバンク
福田将儀(習志野~中央大~楽天
宮内和也(習志野~明治大~NTT東日本
泉澤涼太(習志野~中央大~明治安田生命
在原一稀(習志野~中央大~JFE東日本)
木村光彦(習志野~日本大~東京ガス

『高校野球 千葉を戦う監督たち』の書籍化はあるのか!?

新聞かネットか。


インターネットが普及されてから、情報はどのメディアで獲得するのが効率的か、この不毛な争いが繰り広げられるようになって久しい。


どちらにもメリットはあるのだし、自分がどのような情報を得たいかによってその媒体を選べばいいだろう。


幅広い教養を得たいなら新聞、専門的な知識を得たいならネット、というのがとりあえずの見解。


ツイッターならば、自分の興味のある情報がひっきりなしに流れてくる。

『埼玉を戦う監督たち』の文字


そんなこんなで、先日ツイッターで目に入ってきたのが、『高校野球 埼玉を戦う監督たち』の文字。


高校野球 埼玉を戦う監督たち ~深紅の大旗を獲るのは俺だ! ~

高校野球 埼玉を戦う監督たち ~深紅の大旗を獲るのは俺だ! ~


3月8日発売とのことだが、なにか既視感。


そう、4年前に日刊スポーツ出版社から『高校野球 神奈川を戦う監督たち』(大利実著)が出ていたから。


高校野球 神奈川を戦う監督たち

高校野球 神奈川を戦う監督たち


高校野球・神奈川を戦う監督たち2 「神奈川の覇権を奪え! 」

高校野球・神奈川を戦う監督たち2 「神奈川の覇権を奪え! 」


いよいよシリーズ化か?と思ったが、どうやら出版社が違うらしい。闇


その辺の事情はよく知らないので、とりあえず置いておきます。


さて、神奈川、埼玉と出たら次は千葉か?と思うが、千葉も負けじと闇は深い。

監督同士の交流が希薄な千葉県


2012年秋、米国遠征を行う千葉県選抜チームが組まれ、監督を務めたのが当時拓大紅陵の監督だった小枝守監督、コーチは習志野の小林徹監督と成田の尾島治信監督が務めた。


ここまでは問題はないが、選手選考に様々な事情が垣間見えた。


「県選抜」と謳っている割に、常に上位に顔を出す木更津総合、千葉経大附、専大松戸の選手の名前がない。


個々のレベルを見れば、当然選ばれていてもおかしくないのだが・・・。


夏の大会前に「神奈川高校野球監督会」が開かれる神奈川、夏の大会前に監督同士の座談会が開かれることもある埼玉と比べて、千葉は指導者同士の交流が希薄しているのは事実だろう。


そこから推測するに、神奈川、埼玉がこうした指導者にスポットを当てた書籍を出しても、千葉版の書籍化はあまり期待できない、出してもただの暴露本になるかも?


良くも悪くも、千葉県の高校野球界は指導者同士が文字通りバチバチしている。

群雄割拠の千葉を彩る監督たち


現在、U-18の日本代表監督を務める小枝守監督を始め、市船習志野で甲子園12勝を挙げている小林徹監督、自身は社会人までプレーし、木更津総合を全国屈指の強豪に押し上げた五島卓道監督、現役時代は全国制覇投手であり、04年に親子鷹でダルビッシュの東北を撃破した松本吉啓監督、茨城で実績を残し、プロ選手も多く育てる専大松戸の持丸修一監督、2度甲子園出場の東海大望洋・相川敦志監督、成田高校の尾島治信監督、すでに一線を退いた監督の中では、銚子商業の故齊藤一之監督、優勝投手であり優勝監督でもある習志野の石井好博監督、公立4校を甲子園に導いた蒲原弘幸監督、我孫子中央学院で監督を務めた荒井致徳監督など、全国でも結果を残した監督は数多い。


都道府県一代表制となった1978年以降、夏の大会で連覇を果たしたのは、1996年~98年に3連覇をした市立船橋、2012,13年の木更津総合の2例しかなく、1980年代以降は、木更津総合が2013年に連覇を果たすまで、市船の3連覇を除き、私立、公立が交互に夏の代表になっているほど千葉県は群雄割拠な地域として知られ、それだけ各校の戦力差が小さく、その都度、個性的な指導法や采配をする指導者が登場するともいえる。


八千代東を甲子園に導いた片岡祐司監督、市銚子、東総工、多古と赴任した学校で常に結果を残している迫屋昇二監督、中学軟式の監督として実績を残し、市船、松戸国際で監督を務めた石井忠道監督、その他にも野村克也監督の下シダックスでプレーした中央学院の相馬幸樹監督、関西で長く監督を務めた日体大柏の金原健博監督、明治大学で監督を務め、プロ野球のスカウトも経験した千葉黎明の荒井信久監督、すでに現場から離れているが、習志野元監督の椎名勝など、枚挙に暇がない。


千葉県の監督たちに焦点を当てたら絶対おもしろいし需要もあるはず。


ということで、僭越ながらこのブログで『千葉を戦う監督たち』(パクリ)をシリーズ化してみたいと思います。


のんびり更新していきますので、暖かくお見守りください。

夏大直前!これだけはやっておくといい応援ルール9つのこと

さて、今週末から高校野球の沖縄大会や北海道大会が始まり、今年で98回目を数える”夏”がいよいよやってきます。


そんな高校野球の風物詩と言えば、「応援」です。


グラウンド上で繰り広げられる選手同士の闘いがメインではあるものの、スタンドで選手をサポートするブラスバンドの演奏に注目する人もいれば、そうしたブラスバンドの音色と控え部員や生徒の声援、そしてグラウンドの選手とが一体となった宇宙空間を肌で感じて快感を得るファンもいます。


つまり、スポーツ(ここでは野球)と応援は密接に結びついているものだと言うことができます。

利他主義である「応援」


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そもそも、自分ではない誰かを応援することにどんな意味があるのか。


心理学的観点から言えば、選手にとっては「周囲から注目されている」快感や「活躍することで賞賛が得られる」という達成目標、応援する側にとっては「他の応援者と一体になれる」達成感などがよく言われ、モチベーションの向上には欠かせないものとも言えます。


また、応援をする意義について、本郷学園の応援委員会(以下の記事を参照)は次のようにとらえています。


学校教育における「応援団」をめぐる考察


本来、応援の精神とは利他主義が本懐であり、それはボランティア精神です。自分自身のことではなく、がんばろうとする他者を支援すること


とりわけ高校野球の応援であれば、母校であり、同じ校舎や教室で学校生活をともにする身近な仲間が応援対象になるわけです。


その選手が普段から頑張っている姿を見ていたら、なおさら自然と応援意欲も湧いてくるでしょう。

応援者の心を一つにまとめる「応援団」


また、本郷学園では「応援委員会」が常設されており、そういった応援団(応援部や応援指導部など一括して「応援団」と呼ぶこととする)の意義についても言及しています。

頑張る人を支援したい、と思う人々の心をリードし、一つにまとめ、大きな力へと換えて送り届けること。これが今も昔も変わらない、『応援団』の存在意義であるはずです。そのためには、頑張る対象者の気持ち、応援しようと思っている人々の気持ちを汲み取り、皆さんが望んでいることに応えられる存在でなければなりません


明治時代に起源を持つ応援団は、早慶戦によりその応援スタイルを確立し、1947年には東京六大学応援団連盟が結成され、現在まで六大学の影響を色濃く受けながらさまざまな応援組織が結成されてきました。

「応援団」の衰退と基本ルールの欠如


しかし、夏場でも学ランを着て、濁声を響かせながら毅然とした風格を持つ男臭さは、今の時代の生徒や学生に敬遠されがちで、応援団は衰退の一途を辿っています。


日本の応援組織として最古の歴史を持つ東京六大学でさえ、リーダー部の部員不足に悲鳴をあげているとも聞きます。


私が住む千葉県では、常設の応援団があるのは片手で数えるくらいしかありません(応援リーダーが学ランを着て~というような昔ながらの応援団は0?)。東京六大学の付属校がないこと、男子校がないことなどが要因でしょうか。


そのためか、千葉県には秋春の県大会でブラスバンドを動員するという文化がありません。


たとえば、埼玉県であれば、埼玉県六校応援団連盟の学校を中心に、秋春の県大会であってもブラスバンドが応援に駆けつけるというのは良くある光景です。


最近では、千葉県でも千葉黎明高校が学校全体の取り組みとして秋春の県大会においてブラスバンド動員を行っていますが、ほとんどの学校は応援に関して夏がぶっつけ本番になるわけです。


だから、エール交換を知らない学校が多いのです。


これはマナーが良いとか悪いとかの問題ではありません。知らないのだから仕方ないのです。


だけど、観ている人たちや対戦校は「知らないから仕方ない」とはなりません。


「こっちはエールをやったのに返ってこない」と知らないうちに印象を悪くしてしまうこともあります。


そうしたことも踏まえて、応援がお互いにとって不利益にならないようにするには、お互いが気持ちよく試合を行うためには、急造の応援団であっても最低限のルールは知っておくべきなのです。

規定されている基本的な応援ルール


まずは、高校野球千葉大会の選手名簿に掲載されている応援のルールをさらっとおさらいしてみます。


使用禁止

  • 鉦、和太鼓、演台、音響装置、ハンドマイク(笛は規律を守るためならOK)
  • 選手個人名の垂れ幕やのぼり、宣伝と見なされる旗や横幕、PR、ビラ配布(許可なし)
  • 光を反射してプレーに支障をきたすもの、スタンドにゴミとなって残るもの、大きな飾り物


応援の仕方

  • 相手攻撃の際は、拍手や声で励ますのがマナー


つまり、社会人野球を応援の参考にしてまんまやったらアウトというわけです。


笛の使用に関しては、県立船橋高校が曲の入れ替え時に使用していました。

これだけは実践してみよう9つのこと


応援の基本ルールを確認したところで、+「これをやればお互い気持ちよく応援できるよ」というのをいくつか紹介していきます。

相手校の応援団(応援リーダー)と打ち合わせ


 これができてればエール交換もスムーズに行くはずです。主な打ち合わせ内容は以下の通り。

  1. エール交換の順番の確認(普通は、試合前:先攻チームが先、試合後:勝利チームが先)
  2. エール交換のタイミングの確認(試合前か初回か、校歌は演奏するのか)
  3. 校名呼称の確認(その学校独自の略称を確認)
  4. エール交換様式の確認(学校によっては自チームへのエールがなかったりする)


近年の千葉大会では、アナウンス前の演奏が禁止?になったようで、初回エール交換前の校歌演奏を規制された学校も多いようです。


それならば、お互い打ち合わせして試合前に校歌付きのエール交換があっても良いかもしれません。


④も意外と大事で、学校によってはエール交換で独自のスタイルがあることも考えられます。


基本的には「自チームエール→相手チームエール」の順番だけど、「相手チームエール→自チームエール」と順番が逆であったり、そもそも自チームへのエールが無く「相手チームエール」のみであったり、その時に戸惑わないように事前に確認しておきましょう。

打ち合わせ内容含めエール交換のルールを周知徹底


エール交換はいつどちらからやるのか、呼称はなにかを応援席にいる控え部員や一般生徒などに広報しておくことも必要ですね。


エール交換の基本的な流れとしては以下の通りですが、こういった流れは球場に来る前にも確認できるはずです。


1 応援団挨拶
2 校歌斉唱
3 自チームへのエール
4 相手チームへのエール

エール交換の際は立ち上がって帽子を取って厳粛に


面倒だ!と思われるかもしれませんが、このちょっとした工夫で印象はまるで違います。


エール交換中に打者がヒットを打ったかなんかで歓声を上げる人がいますが、エール交換中は私語厳禁で厳粛に行うことが一つのマナーでもあります。


たとえば、栃木の佐野日大高校が甲子園出場した際は、応援マニュアルに「エール時は私語厳禁」と明記されていたとか。


これは応援席にいるすべての人が徹底すべき事項ですから、応援団はしっかりとした呼びかけが必要です。

相手選手が負傷したり審判が協議しているときは演奏を止める


こういう時の演奏を止めるか止めないかの判断って結構難しいですけど、相手選手が怪我した時に演奏を止めるのは相手校への配慮であり、審判協議中に演奏を止めるのは審判への配慮はもちろん審判の説明を待つ観客への配慮でもあります。


負傷した相手選手がグラウンドに戻ってきたときに拍手を送るのも素敵ですよね。


昨夏の千葉大会、長狭対西武台千葉戦では、長狭高校の早戸投手が負傷してベンチで治療を受けていた場面で、対戦校の西武台千葉高校スタンドから「早戸」コールが起こりました。


意図はどうあれ、お互いの応援者のみならず、見ていた人すべてが清々しくなる粋な計らいでした。

守備(劣勢)時の拍手や声援


一般的に、「応援は攻撃時にするもの」と考えられがちですが、実は一番応援しなきゃいけない場面って自チームの守備がピンチを迎えているときなんです。


応援の基本的なルールを前述しましたが、そこにも「相手攻撃の際は、拍手や声で励ますのがマナー」ってありますよね。ルール的にはOK!


グラウンドの選手たちはピンチが一番苦しいときなんです。それをサポートできるのは、救えるのは、応援席のあなたたちですよ。


特に千葉県は、伝令で守備がマウンドに集まったときに演奏を止める学校が多いので、そのシーンとなるときがチャンスです。


相手の応援団がくれた空白の時間に声援を送ってあげましょう。ピンチがチャンスに変わるかも?

全校応援(学年応援)の時は、野球部員をブロックごとに配置


これは野球部員でなくても、応援のノウハウがわかる生徒が一般生徒のお手本となるように間隔を空けて配置することは応援格差を生まない一つの工夫でもあります。


全校応援ともなればメガホンを叩くだけの生徒もでてきますし、応援のかけ声も曖昧な生徒が多いはずです。


そうすると必然と応援に無関心なブロックができてしまいます。


一体感という名の宇宙空間を作り出すためには、そういったブロックを一つでも減らすことです。


応援って一人の「バカ」がいると自分も乗っていけるもので、そういう「バカ」を野球部員が演じられれば理想的な応援の姿に近づけるのではないでしょうか。


学ランを着た応援団員がスタンドを回りながら応援者を鼓舞する光景を見ればイメージしやすいでしょう。

試合後のスタンドの後始末


スタンドにゴミを残さないこと!シンプルです。

相手守備がマウンドに集まっただけで演奏を止めない


もはや説明不要。

「ウチの名物はこれ!」と言えるような応援(曲)


その学校にしかないアイデンティティを模索することです。


それは紅陵高校のように30曲以上のオリジナル曲を作らなくても、習志野高校のように200人体制で爆音を響かせなくてもできることです。


たとえば、その学校のOB・OGが歌っている曲とか、クラシックでもアニソンでもゲームのBGMでも、他が使ってない曲を選曲するのもよし、他が使っている曲でも独自にアレンジするのもよし、吹奏楽部が普段コンサートで演奏している曲を野球応援風にアレンジするのもよし、とにかく、「○○高校と言えばこの応援だよね」と周囲100人が100人とも同じ認識になるような応援が理想です。


そういった独自性のある応援は応援席が一つになれるし、お客さんも「ここの応援が聞きたい」と味方してくれるはずです。

おわりに


日本の野球応援の発祥とも言える東京六大学で、なぜこのような応援文化が確立したか。


かつて早慶戦では、観客が怒鳴ったり野次を飛ばしたりするような無秩序な応援により試合が中止に至る、あるいは「リンゴ事件」などの大騒動を引き起こすことが多かった。


そうした苦い経験から、「味方を熱烈に応援しながらも決して相手を貶めず尊敬を忘れない応援姿勢」という考えが生まれました。


相手に敬意を表す一つの形がエール交換でもあります。


ぜひ、相手への敬意を忘れず、自分たちの自慢の応援を見せて下さい。


応援団は応援者の心を一つにまとめ、規律を保つために重要な役割を果たします。


応援席を一体にしようとする応援団の努力は、昨年夏の松山高校のような感動的な応援を生み出すことにも繋がります。



H27夏 松山高校野球応援~リベンジvs聖望~



松山高校 応援 平成27年夏 準決勝



この夏も、すべての「応援団」を応援しています。

チャンス紅陵で御殿は建つのか

「チャンス紅陵で御殿が建つくらい儲かってる」


2015年6月21日、日本初どころか世界初とも言われる、演奏曲を野球応援曲のみに絞り込んだ野球応援コンサート(BASEBALL SUPPORTERS CONCERT)が千葉県文化会館で行われました。


出演校は、習志野高校と拓大紅陵高校。野球部だけでなく吹奏楽部にも多くのファンを持つ千葉野球応援界の二大巨頭ですね。


そのコンサートの2部で両校顧問のトークショーがあるんですけど、その中で、習志野の石津谷先生が拓大紅陵の吹田先生を評したのが冒頭の発言です。

俺、前言ってたんですよ。(拓大紅陵の吹田)先生、著作権しっかりした方がいいよって。
なのに、日本全国にみんなやらせちゃうから、もう何百万、何千万か損失しましたよね。
本当ならば、チャンス紅陵で御殿が建つくらい儲かってるんですよ。本当ならば。
だって日本全国どこだってやってますもんチャンス紅陵。
そしたら、チャンス紅陵御殿とか、燃えろ紅陵御殿とか、なんかもうボンバー吹田御殿とか、いろいろ建ってどこに住んでるかわかんなくなっちゃうっていうくらい儲かっている。


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たしかに、これまで高校野球応援と著作権については様々な疑問を持っていたので、今回は「チャンス紅陵」を対象に著作権について色々調べてみました。


※ここで論じるのは「仮定」の話であって、実際とは異なることも考えられます。

チャンス紅陵とは


「紅陵」の名からもわかるように、拓大紅陵高校のオリジナル曲であることは有名ですが、先述のトークショーでも触れられたチャンス紅陵の起源を記述しておきます(下記は10年くらい前の記事)。

かつて野球少年だった吹田教諭は、高校では入学と同時に、応援で野球部に協力しようと吹奏楽部に所属した。
拓大紅陵の教師となって間もないころ、硬式野球部の小枝守監督と
「聞いたらすぐに紅陵と分かる応援曲を作れないか」
と話したのをきっかけに、応援曲作りに取りかかった。
「スタンドが盛り上がり、選手の気持ちを高め、相手に心理的プレッシャーを与える曲」
鼻歌でメロディーを考えるうちに、「チャンス紅陵」という曲が誕生、3回目の甲子園出場となった86年のセンバツ大会で演奏された。
吹田教諭は「応援はみんなの心が一つになれるもの。分かり易い曲を作ってきた」と話す。
毎年作るので、野球部員が「今年はどんな応援曲ですか」と尋ねてくる。
曲を覚えられるよう、92年と02年には「拓大紅陵応援曲集」というCDを作った。
吹奏楽部の演奏と野球部の応援団の掛け声が録音されており、OBや保護者の中にはこのCDを聴きながら球場に駆けつける人もいるそうだ。



【高音質版】拓大紅陵 チャンス紅陵 2011


「チャンス紅陵」が初めて公の場で使用されたのが、1986年の春のセンバツ大会。


その時の紅陵は、元ヤクルトの飯田哲也や元ロッテの佐藤幸彦などを擁し、関東大会は春秋連覇、「東の横綱」と呼ばれた時代でした。


それから今年で30年、飯田は現在ソフトバンクでコーチを務めており、佐藤の息子は現在紅陵野球部に在籍しています。時代は確かに流れていますが、今でも「チャンス紅陵」は、千葉県の高校野球を彩っているんです。


私の手集計によれば、2014年夏、2015年夏の千葉大会において、調査対象104校中58校、実に千葉県全体の58%の学校が「チャンス紅陵」を応援曲として使用しています。


半分以上の58%が使用しているのだから、単純計算すれば175校の千葉県高野連加盟校のうち100校以上は使用していることになるし、確率的には千葉で夏の高校野球を観戦すれば「チャンス紅陵」を必ず聴けることになります。


ちなみに、この夏の千葉大会使用頻度58%は、天理ファンファーレ(96%)、アフリカンシンフォニー(72%)、夏祭り(69%)、ルパン三世のテーマ(64%)に次ぐ5番目に高い水準であり、あの高校野球応援のド定番曲、サウスポー(56%)、紅(51%)、GO!GO!トリトン(45%)などをも凌駕してしまうほどで、千葉県球児にとって馴染みの深いものである点も見逃せません。


三大千葉県といえば、「ディズニーランド」「落花生」、そして「チャンス紅陵」であることは公然たる事実であり、その証拠に少年野球や小中の運動会でも使われたりしますからね。


千葉県が世界に誇る名応援曲。まあ、一般常識レベルです。

「チャンス紅陵」の他県流出


「チャンス紅陵」は、今や千葉県のみならず、埼玉県や群馬県など関東圏を中心に、全国でもちらほら使っているところを見かけます。


ではいつ県外に流出したのか。


前述のトークショーでも話題になりましたが、紅陵が1986年春に初演奏したその同じ年の夏、埼玉の浦和学院はいち早く「チャンス紅陵」を応援レパートリーに取り入れ、甲子園でも演奏しています。


はやっ!( ゜Д゜)


「チャンス紅陵」が誕生から数年で名応援曲としての立場を確立させたことを考えると、浦学の即断は先見の明があったと言えるかもしれません。



68回大会 浦和学院 半波


浦和学院がベスト4に進出した1986年夏の甲子園の映像です。当時、浦和学院の主軸を打っていた半波選手が、1986年の春季関東大会で拓大紅陵と対戦した際に「チャンス紅陵」を気に入ったようで、同年夏の埼玉大会から半波選手の個人専用曲として浦和学院の応援レパートリーに取り入れられました(現在はメドレー曲の一部)。ちなみに、同じ埼玉の上尾高校は、「チャンス紅陵」を「半波」と呼んでるんのだそう。

野球応援曲の著作権


さて、ここまで「チャンス紅陵」の浸透力について列挙してきましたが、

著作権しっかりした方がいいよ」


とおっしゃる石津谷先生の気持ち、すごくわかります。大丈夫なの!?


ということで本題、野球応援曲と著作権についてですが、そもそも著作権とは。

著作権法第17条 2  著作者人格権及び著作権の享有には、いかなる方式の履行をも要しない。


著作権は、著作者が著作物を創作した時点で自動的に発生するのだそうです(無方式主義)。


つまり、吹田先生が「チャンス紅陵」を創作した1985年?時点で著作権は吹田先生および拓大紅陵高校が有するわけです。

著作権法第51条 著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まる。
2  著作権は、この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)五十年を経過するまでの間、存続する。


当然、著作者である吹田先生は現在でも元気に指揮を振っていますから、「チャンス紅陵」の著作権は消滅していません。


じゃあ、やっぱり「チャンス紅陵」を他校が使うのは著作権侵害にあたるんじゃないの?


結論から言いまして、「チャンス紅陵」に限らず、「天理ファンファーレ」や「アフリカンシンフォニー」など、他者に著作権が存在する曲だとしても、野球応援として演奏すること自体には何の問題もないのだそうです。


www.bengo4.com


上記の記事を参考にしてもらえばわかりますが、

著作権法第38条 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。


(1)営利を目的としていない
(2)聴衆から料金を受け取らない
(3)演奏について報酬が支払われない

野球応援はこの条件に該当するため、著作権で保護されている曲であっても著作権侵害にはあたらない、というわけです。まあ、お客さんはブラバン演奏ではなく野球を見に来てますからね(一部そうではない方たちがいますが...)。


なので、他の学校が無許可で「チャンス紅陵」を演奏しているからといって著作者である拓大紅陵側が「著作権侵害だ!」と訴えても、非営利目的である応援団から著作権使用料を徴収することはできないんです(「やめてください」と言えばやめてくれるかもしれませんが←習志野のレッツゴーがそう)。


ちなみに、甲子園大会の野球応援でいわゆる「定番曲」を演奏する場合、応援団は問題なくても、甲子園大会は入場料を徴収しているので、高校野球連盟か甲子園球場側かいずれかの機関がJASRAC日本音楽著作権協会)に球場の面積(または定員数)に即した使用料(包括契約)を支払う必要はあります。

応援曲「改変」の問題


非営利目的であれば何でも自由に演奏できるのか、ということではありません。


上記の弁護士ドットコムの記事を見てもらえばわかるとおり、非営利目的の演奏であったとしても、他人の曲を勝手に改変することはできません。

著作権法第20条  著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。


著作者は、著作権財産権のほかに、著作者人格権という人格的利益の法的保護を受けています。その著作者人格権の一つが上の条文の『同一性保持権』です。


ここでピンとくる方もいるかもわかりませんが、



浦和学院野球応援曲 - 怪物マーチ


そうです、この曲です。


いつから「怪物マーチ」と呼称するようになったかは不明ですが、前掲の『浦和学院 半波』の映像で流れる曲は今の「怪物マーチ」より「チャンス紅陵」寄りだとわかります(選手コールの「カセカセ半波」は本家と同じで、現在の浦和学院「怪物マーチ」とは異なります)。


つまり、浦和学院は「チャンス紅陵」を「怪物マーチ」として「改変」したと言うこともできます(あくまでここで述べているのは浦学が許可を取っていなかったという「仮定」の話であって、実際、浦学が正式に紅陵から「チャンス紅陵」を貰い受けて、こうした「改変」も許可を取っている可能性も考えられます)。


法律の専門家ではないので「改変」の基準がどの範囲まで及ぶのかわかりませんが、題号の変更のみで30万円の慰謝料の賠償を認めた判決(XO醤男と杏仁女事件・東京地裁H16.5.31判決)があったことを参考にすると、「怪物マーチ」という「改変」もその基準を満たすことは十分考えられます。


この『同一性保持権』の問題で争点となるのは、著作者の名誉声望の侵害です。

「怪物マーチ」は名誉声望の侵害になる?

著作権法第113条 6 著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、その著作者人格権を侵害する行為とみなす。


この精神的損害としての名誉声望の侵害に関しては、昭和61年5月30日のパロディ写真事件において以下のような判断がなされています。

著作者の名誉声望とは、著作者がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的声望名誉をさすものであって、人が自己自身の人格的価値について有する主観的な評価、すなわち名誉感情は含まれない


2004年春以降、本家の拓大紅陵が甲子園に出れていない間、浦和学院は春5回夏6回の甲子園出場、うちベスト8、ベスト4が1度ずつ、2013年春には初優勝を果たすなど、名実ともに全国の強豪校としての仲間入りをしています。


特に最近はyoutubeSNSなど、情報交換が活発に行われ、「浦学はオリジナル応援曲が豊富」という認識が全国の高校野球ファンの間で広まり、「怪物マーチ」もその呼び名から浦学オリジナルと認知されることが多くなったと言えます。


その証拠に、花咲徳栄聖望学園等の埼玉の強豪校が「チャンス紅陵」を使うときの応援ボードは「怪物」です。これは、浦学をリスペクトする浦添商業などの沖縄の学校(市立尼崎高校の友情演奏)も同様です。


これは主観的な意見ですが、「怪物マーチ」の原曲が「チャンス紅陵」であることを知っている人は一部の応援マニアだけでしょう。私の周りも「浦学の曲」と認識している人が多いです。


これらのことを踏まえると、著作者である吹田先生(拓大紅陵)の「名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価」は少なからず下降気味であることが言えます。ただ、名誉声望の基準もかなり曖昧であり、この「怪物マーチ」の広がりが名誉声望の侵害に当たるのかは微妙なところです。


仮に名誉声望の侵害が認められれば、過去の裁判例(前掲デッドオアアライブ2事件・東京高裁H16.3.31判決→慰謝料200万円、記念樹事件・東京高裁H14.9.6判決→慰謝料500万円)から数万円~数百万円にまで及ぶ慰謝料の賠償を請求することができます。

シミュレーション


ここからはあくまで妄想です(というかこの記事終始妄想か)。


妄想その1


千葉県で「チャンス紅陵」を使用しているのは約100校であるとして、他県であれば、浦和学院を筆頭とする埼玉県勢、じゃあ20校くらいとしておきましょう、他には前橋商業を筆頭とする群馬県勢10校、あと全国にちらほら10校、計140校(仮)とします。


このすべての学校におそらく紅陵高校で保管されているであろう「チャンス紅陵」の楽譜を満を持して各校に配ります。もちろん有償で。


管楽器の単旋律を採譜した楽譜の料金の目安が3000円ということで、それを採用すると...3000×140=420,000円(手数料含まず)


妄想その2


仮に、浦和学院が「浦学応援曲集」としてCDを発売したとします。


25曲収録で定価1,500円のCDを10,000枚製造、その中に「怪物マーチ」を含めるとすると、CD販売は営利目的に含まれるため著作権の使用料が必要になります。


上記の概要からJASRACの計算方式を採用すると、「チャンス紅陵」の使用料は65,880円になります(消費税込み)。

まとめ


つまり、「チャンス紅陵で御殿が建つ」のは極めて難しい、ということです。


名誉声望の侵害が認められても、せいぜい賠償金は数十万円。前述の妄想を含めても、「数千万円」には到底届かないことがわかります。




で、色々調べていて思ったんですが、冒頭で取り上げた「野球応援コンサート」は著作権の問題大丈夫だったんですかね?


JASRAC管理曲バンバン使って、入場料バリバリ取って、しかもDVD/BDまで出してたけど。


結局は、特許と違って著作者が名乗りを上げなければややこしい話にもならないんですね。




そういえば、拓大紅陵はオリジナル曲の豊富さから学校独自の応援曲集CDを現在までで計4枚販売してますが、ver.1が絶版となったのは著作権の問題があったからなんですかね。


ver.1は、原曲のあるコパカバーナとかシェリーに口づけとか収録されてましたから。


ちなみに、今出てる紅陵CDにも、原曲のある木更津甚句とか証城寺の狸囃子とか収録されてますけど、どちらも現在著作権は消滅してます。問題なしという判断でしょう。




ということで、3月のセンバツ大会には、「チャンス紅陵」を演奏する木更津総合、桐生一、花咲徳栄の3校が出場します。


あれは、「浦学の曲」ではなく、「紅陵の曲」ですからね!!