房総球奏考

野球応援だったり観戦日記だったり

第2回 五島卓道(木更津総合) 選手主導が生み出す無色の野球

新千葉の盟主・木更津総合


以前、千葉県の高校野球史の特徴として、時代ごとにリーダー格となる学校が移り変わっていることを指摘したが、現在の千葉県の高校野球界を引っ張るのは間違いなく木更津総合である。


記憶に新しい2016年の甲子園春夏連続ベスト8をはじめ、関東大会は2008年の春と2015年の秋の2度優勝と、県外との対戦でも着実に成績を残している。


夏の千葉大会では、2003年の甲子園初出場以来、ベスト16以上に進出できなかったのは2011年のみ(この代の秋は県大会優勝)という、群雄割拠の千葉県にあって抜群の安定感を誇る。


この木更津総合を1998年の11月(当時は木更津中央)から率いているのが、五島卓道監督である。

過去10年(2007~16)の夏の千葉大会監督勝率10傑

10位.765(26-8) 小枝守(拓大紅陵) 準優勝1回 4強1回
9位.767(33-10) 森下倫明(東海大浦安) 4強2回
8位.778(28-8) 松田訓(流経大柏) 4強2回
6位.780(32-9) 櫻内剛(市船橋) 優勝1回 準優勝1回
6位.780(32-9) 松本吉啓(千葉経大附) 優勝1回 4強1回
5位.791(34-9) 尾島治信(成田) 優勝1回 4強1回
4位.809(38-9) 相川敦志(東海大望洋) 優勝1回 準優勝2回 4強1回
3位.810(34-8) 持丸修一(専大松戸) 優勝1回 準優勝1回 4強3回
2位.840(42-8) 小林徹(習志野) 優勝1回 準優勝2回 4強3回
1位.893(50-6) 五島卓道(木更津総合) 優勝4回 準優勝1回 4強1回


各校の戦力差があまりなく、公立高校含め「戦国千葉」と称される千葉大会において、五島監督が率いる木更津総合の戦績は頭一つ抜け出していることをこのデータは示している。

無色の野球


では、木更津総合の強さはどこにあるのか。


わからない、説明ができない、というのが個人的な感想である。


たとえば、全盛期の銚子商業習志野拓大紅陵市船橋であれば、共通して豊富な練習量に裏付けされる緻密さと豪快さの融合が見られたが、近年の木更津総合にそういった細かい野球やパワフルさは見られない。


数年前の成田や近年の東海大望洋のように、毎年140キロを超える本格派を中心とした投手力のチームかと言えばそうでもない。


全盛期の千葉経済や習志野のように、采配によって奇襲を仕掛け、ゲームを流動的なものにするという面もあまり見られない。


カバーリングや全力疾走も徹底できているかという点も首を傾げる部分である。


要するに、色がないのである。


しかし、この無色こそ木更津総合の特長であり、色なのかもしれない。


高校野球大学野球などの強豪チームに対して、我々観戦者はとかくその原因を限定的に探ってしまうが、そういったものは要因の一つに過ぎず、結局勝つチームというのは総合的なバランスの良さに収束されるのではないか。


たとえば、全盛期の智弁和歌山日大三などは、圧倒的な打撃力がクローズアップされるが、投手力や守備力も全国レベルであったからこそ甲子園でも勝てたのだ。


打つチームが勝つのではなく、投げて走れて打てて守れるチームが勝つチーム、身も蓋もない話だが、この結論に尽きる。


その意味で、特別打てて守れて走れるわけではない木更津総合が、群雄割拠の千葉で突出した戦績を残しているのは、そのバランスの良さが起因しているのではないだろうか。

戦力差を埋める「考える野球」


だが、原因はそれだけに求められない。


五島監督は常々選手に「考える野球」を提唱している。


mainichi.jp

自分に必要な練習は何かを考え、工夫してやると伸びてくる。引き上げられるために何をすればいいのか、考えて行動するのは野球以外でも同じ


ミーティングでは常に選手に発言を求め、朝練も含め練習時間の1/4以上を自主練習にあて、その間五島監督は一切口を出さない。

試合前に大まかな作戦は話すが、試合中は基本的には選手に任せる。言わなくても考えてできる。そういう選手でないと活躍できない


2016年の甲子園で活躍し、大会後には日本代表にも選出された早川隆久はこう語る。

手堅くバントして出塁してというのが、うちの野球部のカラーなんです。ホームラン攻勢みたいな派手なチームじゃないので。あと、『考える野球』を追求していくのが、五島監督の野球です。ミーティングはもちろん、監督から常に発言を求められるので、どうすれば強くなれるのか、みんないつも考え続けています。


木更津総合の野球はオーソドックスであるが、采配の一つ一つをチームが共通理解し、選手一人一人がゲームを冷静に見極められる余裕を持ったチーム、というのが私の印象である。


序盤や中盤に先制を許したり、終盤まで競った展開でも、決して焦ることがない。


昨夏の千葉大会初戦柏南戦、粘り強い相手に対して1点差の辛勝となったが、内容は木更津総合が圧倒していた。


早川という絶対的な存在があったのはもちろんだが、選手一人一人が最後に1点勝ってればいいという後ろから逆算したゲームプランを共通認識しているのか、序盤にチャンスを逃したり同点に追いつかれても焦燥感がまったく感じられない。


ピンチになっても常に落ち着いているからこそ、間合いをしっかり取った上で失点を最少に抑えられる。


2016年の千葉大会を通じて、1イニングに大量点を失ったのは準決勝の千葉経大附戦の5回みで、それ以外のイニングは2失点以内に抑えている。


その経済戦も無駄な四球やエラーが絡んでいないことから、単に経済が一枚上だったということだろう。


3回戦の検見川戦では、3点差の9回に無死満塁のピンチを迎え、早川が緊急登板となったが、もう1人ランナーを出せば勝ち越しのランナーとなる場面、早川大澤バッテリーが死球を恐れない執拗なインコース攻めを披露し、3者連続三振を奪う圧巻のピッチングで締めくくった。


これも、バッテリーが内角の制球に絶対的な自信を持っていたことの他に、1点2点を許しても構わない、1点に固執しない余裕のある考え方をしていたからこそ、大胆な配球が生まれたのではないか。


また、木更津総合というと、その接戦の強さから、勝負所で一本が出る勝負強いチームだと認識されがちだが、数字だけ見れば千葉大会の5回戦以降の得点圏打率は.272とチーム打率.275よりも低い。


それにもかかわらず、我々観戦者含め相手チームが”印象”という曖昧な指標で木更津総合を分析してしまうこと自体、精神的な優位を木更津総合に与えてしまっている、それも強さの要因の一つだろう。


総括すれば、木更津総合は自分自身あるいはチームを客観視できる大人なチームであり、その原点は五島監督が常日頃選手に考えることを求めているからであろう。


2016年の千葉大会は、その五島野球の集大成とも言える。

五島野球の原点


五島監督は岐阜県の関高校から早稲田大学に進み、社会人の川崎製鉄神戸で内野手として28歳までプレーした。


その後、川崎製鉄神戸でコーチを2年、監督を3年務めた。その時に甲子園常連校出身の選手たちが指示を待っているだけで、自分から動けないことを感じたという。


また、社業の方では、営業マンとしてトップクラスの成績を残し、31歳の時には係長にまで昇格している。


そういった指導者として、営業マンとしての社会人時代の経験が、現在のの指導に結びついてる。


1988年、早稲田大学時代の恩師・石山建一氏の知人でもあった稲尾和久氏(元西鉄など)に乞われ、当時野球部強化に乗り出していた暁星国際の監督に就任する。


当時の暁星国際は、帰国子女を幅広く受け入れ、併設されている中学校含め900人近い生徒のほとんどは県外から集まり、約半数は海外生活経験者という国際色豊かな進学熱の高い学校であった。


野球部は、長嶋茂雄氏の次男・正興が在籍していたが、創部9年で夏の最高成績は1回戦突破。


学校の「文武両道」の方針で、学校側は全国から監督選びに奔走したがなかなかあてが見つからず、そこで白羽の矢が立ったのが、当時川崎製鉄神戸で管理職を務めていた五島監督であった。


暁星国際監督時代は、社会人時代の経験と高校野球に適合させるように試行錯誤を繰り返した。


五島監督の指導の原点は、川鉄神戸の監督から暁星国際の監督になったその間にある。

小笠原道大


1988年11月の暁星国際監督就任に伴い、翌89年に入学した強化1期生には小笠原道大(現中日2軍監督)や北川哲也(元ヤクルト)ら12人がいた。


当初、小笠原はスカウトされる予定はなかったが、チーム事情により獲得することになる。五島監督が回想する。

千葉西リトルの2年生で欲しい選手がいて、その選手を獲る代わりに頼まれたのが、どこからも声のかからない小笠原だった。


”左打者”というだけで入学した小笠原は、五島監督の印象についてこう語る。

小柄だが、威圧感、存在感のある監督だった。


対して、五島監督が抱いた小笠原の第一印象はのちのプロでの活躍を期待できるものではなかった。

だいたいどの選手も初めてプレーを見たときに「こいつはプロに行くな」というのがわかる。おまえだけ例外だった。おまえに関しては、プロなんてとんでとないと思っていたんだけどなぁ。


就任1年目の1989年の夏は、野口寿浩(元日本ハムなど)擁する習志野に敗退。


新チームでは、レギュラー全員下級生ながら秋春連続でベスト8まで進出し、2年目の1990年の夏にはさらなる快進撃を見せる。


準々決勝で拓大紅陵、準決勝で習志野と千葉を代表する両校を破ったことで、当時の千葉日報に「県球史に新たな1ページ」と見出しが乗るほど、新たな波を予感させた。


しかし、決勝で成田に完敗し、試合後、五島監督は涙を流した。

千葉は伝統ある学校が多いから、内心では5,6年で甲子園に行ければいいと思っていた。この時思いがけなく決勝まで進んだけれども、やはりいろいろな意味で時期尚早だった。

当時は勝ちに飢えていて、まだ余裕がなかったからなぁ。後にも先にも生徒の前で涙を見せたのは、あのときが唯一だよ。


下級生中心のメンバーだっただけに翌年以降の甲子園出場が期待されたが、翌91年の夏は、初戦で銚子商業に敗退。


そのチームで小笠原は「嫌だった」というキャッチャーを務めた。


その意図を五島監督はのちの小笠原にこう説明する。

当時のエースは北川哲也。バッテリーの関係でいうと、北川がリードしてキャッチャーが合わせるというコンビだった。気性の激しい北川と互角にぶつかり合いケンカもしながら、そのよさを引き出すことのできる強くて落ち着いた性格を持った選手とバッテリーを組ませたいと考えた時に小笠原が思い浮かんだ。このことを説明しても、当時ではその意味を理解するのはおそらく難しいと思ったから言わなかったんだよ。


まさかの初戦敗退を喫し、強化1期生が引退。


小笠原は地元のNTT関東に進むことになるが、五島監督が大きく関わっている。


有名な話だが、小笠原は高校通算でホームラン0本であったにもかかわらず、五島監督はNTT関東の首脳陣に対して、「こいつは30本打っている」と嘘をつき、採用を依頼、セレクションを受けられるようにセッティングした。


実は内々に川鉄神戸にも内定していたが、「鉄関係は嫌」という小笠原の漠然とした考えも考慮し、NTT関東にコンタクトをとったのだ。

集めた野球部員は卒業後の進路こそもっとも大事。


五島監督のポリシーである。


小笠原は、暁星国際に進んだこと、五島監督との縁をこう語る。

暁星国際高校に拾ってもらった自分には「運がある」と前向きにとらえることにした。そして、その後の僕の野球人生を考えると、この高校に入学したからこそ、プロ野球への道が開けたといっても大げさではなかった。


小笠原は、木更津総合が甲子園に出場すると今でも差し入れを欠かさない。

同じ木更津市の木更津中央へ


北川、小笠原という強化1期生が卒業した暁星国際は、その後も秋や春の大会では優勝する地力はつけるもののなかなか甲子園に届かない。


早急な結果を求めていた学校側は1993年五島監督を解任した。


解任後、数年間暁星国際で教鞭をとっていた五島監督を、同じ木更津市の木更津中央高校の真板益夫理事長が直々に監督就任を要請、当初は断り続けていた五島監督も熱心に足を運ぶ真板理事長の熱意により受け入れ、1998年11月に木更津中央の監督に就任した。


当時の木更津中央には120人部員がいたが、「サボるやつはグラウンドに入れない」と厳しく接し、その数は半減した。


五島監督の方針で、毎年新入部員は20名程度の少数精鋭となる。

私がきちんと(進路含め)みれるのはその人数が限度です。


就任2年目の夏に千葉大会準優勝、5年目の2003年、清和女子短大附属高と統合し、木更津総合高校に校名変更した節目の年に悲願の甲子園出場を果たす。


その後の活躍は承知の通りである。

指示しない指導法


五島監督就任以降、着実に成績を残していく木更津総合だが、主力選手でも高校野球を最後に本格的な野球を辞めてしまう選手も多い。


2012年の3番バッターでプロにも注目された三國和磨(現在は徳島インディゴソックスに所属)や2013年に甲子園出場をした時の4番バッター谷田涼、昨夏4番を務めた鳥海嵐万などはその例である。


その要因として考えられるのは(真相はモノホンライターが取材で明らかにしてほしいところだが)、木更津総合の選手は自分を客観的に見れる、現実的な考えの選手が多いこと、五島監督やスタッフも、大学の推薦やセレクションは紹介するものの、それを強要しない、あくまでプレイヤーファーストの考えを貫いていることなどが挙げられる。


五島監督は選手にああしなさいこうしなさいと指示せず、選手に対して考える機会を与えるだけで、考えた結果の行動を決して責めることはない。

指示をするより時間がかかりますけれど、自分で気づく方が一時的なもので終わらず長く続きますよね。


そうして自分で気づいた、考えたことについて、第3の目線で精査することを求める。

同じチームのピッチャーと、「ピッチャーから自分はどう見られているのか」っていう会話をするのって大事じゃないですか。そういう客観的な意見を聞かないで、「僕はがんばっています!」というのが多すぎる。人との会話をしないで練習だけ頑張ろうとしても無理です。

12月に千葉県の御宿で合宿します。そのミーティングの時に「3分間スピーチ」を皆の前で披露します。自分の考えをまとめる力や話す力がつきますし、人前で自分の考えを言えるようになれば、自然に自覚や責任を持てるようになります。


そうやって出した答えが尊重されるからこそ、進路先も本人の意思に任される。


一般就職をする際も、五島監督以下スタッフが最後までサポートをする、それが五島監督のポリシーだ。


http://clipee.net/7781/2

選手主導のチーム


今や木更津総合の代名詞とも言える「全力校歌」も選手の提案から生まれた。

94回大会(2012年)の時のキャプテン(國廣拓人)が、朝礼で校歌を歌わない選手に「グラウンドで歌うのに、なんで朝礼でちゃんと歌わないの」と言ったのがきっかけで、みんな全力で歌うようになりました。残念ながらその年の甲子園は1回戦で負けてしまい、歌うことはできませんでしたが、翌年、キセキ的に連続出場できまして、披露することができたんです。


選手の練習用のユニフォームの肩には「元気」と書かれている。


これも選手が考えてやり始めたことで、その間五島監督のアドバイスは一切ない。


木更津総合が秋や春より夏に好成績を収めるのも、試合を重ねるごとに選手の考えが成熟され、それが試合に反映されるのが最後の夏になるという面もあるのだろう。


習志野も選手の感性が重視されるが、習志野木更津総合ではその形態はやや異なる。


習志野の場合、試合を支配しているのは圧倒的存在感を放つ小林監督である一方、木更津総合は五島監督の試合中の指示はほぼなく、試合を支配しているのはプレーしている選手たちである。


思えば入学時野手だった早川が投手にコンバートしたのも、打撃練習で早川の球質に気づいた当時の3年生の進言であった。


選手が監督に意見を素直に言える。

(早川は)僕の言うことを聞かないこともありますよ。それでいいんです。全部を聞いていたら自分を見失ってしまいますからね。


絶対的な思想を作らない、それが五島野球の根本であり、”無色”の正体である。


参考

魂のフルスイング

魂のフルスイング



五島卓道
1954年6月19日岐阜県美濃加茂市出身

岐阜県立関高校

早稲田大学

同期に吉沢俊幸(元阪急など)

川崎製鉄神戸(1977年~1982年)

川崎製鉄神戸コーチ

川崎製鉄神戸監督

暁星国際高監督(1988年11月~1993年7月)

関東大会

出場 2回(1992秋、1993春)

通算 0勝2敗
千葉県大会

優勝 2回(1992秋、1993春)
準優勝 1回(1990夏)
8強 4回(1989秋、1990春、1991春、1992夏)

木更津中央(総合)監督(1998年11月~)

甲子園大会

出場 7回(2003夏、2008夏、2012夏、2013夏、2015春、2016春夏)
8強 2回(2016春夏)

通算 9勝7敗
関東大会

出場 6回(2004秋、2008春秋、2010秋、2014秋、2015秋)
優勝 2回(2008春、2015秋)
準優勝 1回(2014秋)

通算 11勝4敗
千葉県大会

優勝 9回(2003夏、2008春夏、2010秋、2012夏、2013夏、2014秋、2015秋、2016夏)
準優勝 4回(2000夏、2004秋、2007夏、2008秋)
4強 6回(2004夏、2005夏、2007春秋、2012春、2015夏)
8強 11回(2001夏、2002秋、2003春、2006秋、2009春夏秋、2011春、2013春、2014夏、2016春)

甲子園通算 9勝7敗 勝率.563
関東大会通算 11勝6敗 勝率.647

主な教え子

北川哲也(暁星国際日産自動車~ヤクルト~シダックス
小笠原道大暁星国際NTT関東日本ハム~巨人~中日)
徳永隆晴(暁星国際東海理化
永井亮一(暁星国際〜日本大~いすゞ自動車
マーク・ランドル(暁星国際駒澤大本田技研
古川裕生(暁星国際駒澤大新日鉄君津)
相川良太暁星国際東海大オリックス
滝田優司(木更津中央〜木更津総合コーチ〜市原中央部長)
小泉雄史(木更津総合東京農業大NTT東日本
大島吉雄(木更津総合〜早稲田大〜島根・矢上高監督〜木更津総合コーチ)
井納翔一(木更津総合〜上武大~NTT東日本DeNA
平野靖幸(木更津総合東海大木更津総合コーチ)
岩崎瞬平(木更津総合桐蔭横浜大JFE東日本)
地引雄貴(木更津総合〜早稲田大〜東京ガス
佐藤優介(木更津総合〜佛教大~日本生命
黄本創星(木更津総合〜早稲田大)
高橋慎之介(木更津総合〜米留学〜巨人育成)
三國和磨(木更津総合〜四国IL徳島)
高野勇太(木更津総合関東学院大〜四国IL高知)
檜村篤史(木更津総合〜早稲田大)
鈴木健矢(木更津総合JX-ENEOS
早川隆久(木更津総合〜早稲田大)